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すみません、と街中で声をかけられ、飛雄馬はふと、その場で足を止め、背後を振り返った。
すると、学生服を身に纏った少年や幼い子供の手を引く女性、連れ立って歩く若い男女二人組……近くを歩いていた老若男女が呼び止める声を聞いたか飛雄馬と同じように歩みを止め、ふと、各々の背後を見遣る。
しかして、呼び止めたスーツ姿の彼──が、野球帽を目深にかぶり、目元を色の濃いサングラスで覆い隠す得体の知れない男との距離を詰めつつあるのに気付くと、何事もなかったかのように雑踏に紛れていく。
飛雄馬は──振り向いた拍子に僅かにずり落ちたサングラスを定位置へと指で押し上げてから、何か?と目の前の男に尋ねた。
上等なスーツを着こなす色男に知り合いはいないはずだが、と飛雄馬は口を噤んだまま、彼の発言を待つ。
「道に、迷ってしまってね。不躾で申し訳ないが、――商社をご存じないかね」
「ああ、それなら今来た道を引き返して、ここから煙草屋の看板が見えるか。その隣のビルだ」
人は見かけによらぬものだな、と飛雄馬はサングラスの奥で目を細め、出張か何かか?とも続けて尋ねた。
「ええ、そうです。フフ……」
目の前の男が、何気なく漏らした笑みに飛雄馬はぞくっと全身が総毛立つのを感じる。
おれはこの笑みを知っている……?
この男、どこかで会ったことが?
「…………」
「コーヒーでも、いかがです。道案内の、お礼も兼ねて」
ニッ、と微笑んだ男の顔を飛雄馬は見つめ、しばし考えあぐねた。
この男に、ついて行っていいものだろうか。
道案内程度でコーヒーを奢るなど聞いたこともない。
それに、出張で来ていると言っていた気がするが、悠長にコーヒーなど、飲んでいる暇などあるのだろうか。何かが、おかしい。
男との邂逅、この数分の間に覚えた違和感に、おれは従うべきなのだろうか。それとも、素直に厚意に甘える道を選ぶべきか。
「……高くつくぞ」
「…………」
飛雄馬が呟いた冗談に対し、男は再び、ニッ、と微笑むと、ついて来いと言わんばかりに歩み始めた。
変わった男だな、と飛雄馬はこちらを振り返ることなく人混みに紛れ、先を行く男の後ろ姿を見つめる。
出張で、と言うのも出任せかもしれぬ。
あの男からしてみれば、おれは単なる暇潰しの道具でしかないのかもしれぬ。
体躯に沿って丁寧に誂えられたであろう三つ揃えのスーツを身に纏った彼は、商談先の会社を自分の足で探し歩くような身分の男とは到底思えなかった。
野球帽を目深にかぶり、顔が割れぬようにとサングラスで目元を覆った見るからに怪しげなおれを見て、彼もまた、己に似た何かを感じ取ったのかもしれない。
変わり者同士、話が合うかもしれんな。
飛雄馬は小さく吹き出すと、遠くに行ってしまった彼を追いかけるために、自分もまた、人混みを掻き分けるようにして歩き出した。
そうして案内された喫茶店の席に着き、飛雄馬はおしぼりと冷水入りのグラスを持ち寄った女性店員に、コーヒーをふたつと告げた男の顔を瞳に映す。
「ぼくの顔に、何かついていますか?」
男が視線に気づいたか、そう、尋ねてきたことに飛雄馬は動揺し、いや、と言葉を濁すと、グラスを手にし冷水を啜った。
冷たい水が喉を通り、全身へと染み渡る。
何の変哲もない、水道水にこれまた水道水で作ったであろう氷を浮かべた代物だが、今の飛雄馬からしてみれば、この冷たい水が何より美味であった。
「野球が、お好きなんですか」
その、野球帽を見るにつけ、と男は付け加え、はたと思いついたがごとく何やら着用しているジャケットの内側に手を差し入れ──そこから取り出したものの中から一枚、手にした紙片を飛雄馬へと手渡してきた。
「好きでも、嫌いでもないな、野球は」
答えてから、飛雄馬は受け取った紙片に視線を落とす。そして、その紙片に書かれた文字列を最後まで読み終えた瞬間、飛雄馬は目の前の男──花形満に対し抱いていた違和感の正体を知ることとなった。
彼は、花形は、おれを星飛雄馬だと知っていながらまるで初対面のような振りをしていたのだ。
飛雄馬は、探していたよ、星くん、いや、飛雄馬くん、と何食わぬ顔をして微笑む花形を前に、ただただ呆然と席に座っていることしかできなかった。
「きみの行方を、興信所に探らせていてね。今朝、東京に着いたばかりだろう。それまでは宮崎に──」
「花形さん!」
飛雄馬の鋭い一声に、騒がしかった店内が、しん、と静まり返る。
「…………」
「人のことを、あれこれ詮索するのはやめてくれ。あなたにだって知られたくない秘密のひとつやふたつ、あるだろう。おれがどこで何をしていようと、あなたには何の関係もないはずだ」
ぽつりぽつりと飛雄馬が言葉を紡ぎ出したことで、一度は静寂に包まれた店内も、元の騒がしさを取り戻していく。
「関係ない。よくそんな台詞を口にできるものだ。皆、きみのことを心配している」
「心配、か。ふふ……もう皆、とっくにおれのことなど忘れてしまっていると思っていた。おれは名刺を渡されるまであなたが誰かわからなかったと言うのに」
どうも、と飛雄馬はコーヒーを運んできた店員に礼を言い、テーブルの端に置かれていた角砂糖瓶から中身をひとつ、取り出すとそれをカップの中に沈めた。
「それは、残念だ。ぼくはきみのことを思い出さなかった日はないというのに」
「…………」
カップを口元まで寄せはしたものの、歯の浮くような台詞を平然と眉ひとつ動かさず言ってのけた花形の胸中を測りかねて、飛雄馬はそのまま静止する。
「飛雄馬くん?」
「さすがは花形さんだ。そんな台詞も板についている。野球は辞めたと聞きましたよ」
名を呼ばれ、飛雄馬はギクリ、と身を強張らせたが、至って平静を装い口元に寄せたコーヒーを啜る。
「きみのいない球界になど用はない。それは伴くんとて、お義父さんとて同じこと」
「……伴」
ふ、と飛雄馬は懐かしい親友の名に、思わず顔を綻ばせた。伴宙太、そうか、彼も野球を辞めたのか。
いつもおれのことを気遣ってくれた彼、大リーグボール二号の秘密を口を割ることなく黙っていてくれた彼、中日のユニフォームを身に纏い、背番号8を背にし打席に立った彼。
泣くのも、笑うのも、何をするのも一緒だった伴。
そうか、伴も野球を……おれの球を捕るために彼は柔道を辞めてくれたというのに。
おれに出会わなければ、伴にはもっと幸せな道があったのではないかと考えずにはいられない。
「…………」
花形さん?と突然口を噤んだ花形を案じ、名を呼んだ飛雄馬だったが、次の瞬間、彼の手からカップから滑り落ちるのを見た。
それどころか白い陶器製のカップはテーブルにて打ちどころが悪かったか音を立てて四散し、机上を黒に染めたばかりでなく、飛雄馬の履くスラックスにまで染みを作った。
「…………!」
「お客様!」
「拭くものをお持ちします!」
近くのテーブルに料理を運んでいた店員が事に気付き、慌てた様子で奥へ引っ込む。
黒く濡れたスラックスはゆっくりと冷えていき、飛雄馬はその場に固まったまま、テーブルの端から床に雫の滴る規則的な音を聞いていた。
「……すまない。うっかりしていた」
花形が席を立ち、自分の足元に屈んだことで飛雄馬はハッ、とそこで我に返る。
店員もおしぼりをいくつか持ち寄り、大丈夫ですか?と尋ねてきた。
「あ…………」
花形さんが、こんな粗相をするとは。
何か思惑があってのことでは──いや、人を疑うのは良くない、しかし、この人のことは今でも測りかねる。一体、何を考えているのか──。
花形が店員に礼を言い、おしぼりでスラックスを拭おうとするのを制止し、飛雄馬は席を立った。
黒い染みは広範囲に渡り、色の薄いスラックスであったことも災いし、やたらと目立つ。
「……弁償させてもらおう、飛雄馬くん。ひとまず、外に出ようじゃないか」
「お客様、あとは私どもが致します。どうぞお気になさらず」
濡れた床や椅子を拭く店員にもそう言われたことで、飛雄馬は花形に導かれるようにして店の外に出ると、彼が拾ったタクシーに促されるままに乗り込んだ。
「火傷は、していないかい」
「花形さんこそハンカチをだめにして……ふふ、あなたの失態らしい失態は初めて見たように思う」
タクシーの後部座席、隣に座る花形に尋ねられ、飛雄馬は気に病んでいるであろう彼に対し、笑みを返す。
「見苦しいところを見せたね」
「…………」
一体、どこへ、とは飛雄馬は訊かなかった。
自分の素性を明かさず、接触してきたかと思えば、今度は彼らしからぬ失態。
かつての阪神の花形はもうどこにもいない。
初めて、この男そのものに触れたように思う。
いや、今は、姉の夫として、か。
こう見えて、人間らしい一面もあるのだな、と飛雄馬はタクシーの窓から外を見つめ、花形と初めて出会ったときのことを思い出す。
あれからずいぶんと、遠くへ来たものだと思う。
彼がいなければ、おれこそ野球をやっていなかったかもしれない。野球、もう硬球を握らなくなってしばらく経つ。左腕ももう使いものにはならない。
今のおれには、何が残っているのだろう。
何ができるのだろう、全国を放浪する中で、まだ答えは出ていない。
程なく、ふたりを乗せたタクシーは名の知れたデパートの前に停車し、飛雄馬はまたしても花形に導かれ、その場に降り立った。
そうしてあれよあれよと言う間に、紳士服売り場にてスラックスを二枚と下着を買い与えられ、再びタクシーに飛び乗っていた。
それからしばらく走った先、タクシーは質素なビジネスホテルの前で停まる。
すでにデパートの試着室で着替えてはいるが、ここで汚れたスラックスをクリーニングしてもらえとでも言うのだろうか。
飛雄馬は降りないのかね、と尋ねてきた花形に導かれるままにタクシーを降り、彼のあとを着いてホテルの中へと入った。
「今日はゆっくり休みたまえ。宮崎から帰ったばかりで疲れただろう」




どうにもしっくりこず、ボツです。
う〜ん。
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